ポーランド南部、オシフィエンチムに設営された強制収容所、ホロコーストの象徴として挙げられる
「アウシュヴィッツ強制収容所」
私の過去に上げたブログのエントリーからは
いたって想像もつかない場所に今回行ってしまった理由を簡単に話すと、
あひるの元ご主人様がアウシュビッツに行きたいと言っていたからです。
最初聞いたときは何ゆえそんな大量虐殺がおこなわれた所に観光?と疑問にしか思いませんでした。
その時の私のアウシュビッツの知識は、ヒットラーの命でナチスドイツがユダヤ人をガス室に入れて根絶やしにするために作られた死の工場とまでは知っていましたが、
どうしてそんな事になったのか?とか、周りは反対しなかったのですか?とか
戦後その責任はだれがとったりしたんですか?など
本当は疑問に感じなければいけない事なのに、
遠い異国であった自分が生まれる前におきた現実、
もう現代ではそして自分には関係ないという意識がなんの根拠か働いて
思考を止めていました。
でもこれはけして私だけではなく、日本人の多くはアウシュビッツはドイツにあるものと思っている人結構いらしゃいますよね。
敗戦国ドイツを悪者にしたてあげようとする
アウシュビッツ=ユダヤ撲滅政策=戦犯ナチスドイツ
と戦後、日本では刷り込まれた背景がありましたので、
それ位の認識で受け止めるのを終わらせた人々がまんまと続出なさったということです。
最近、たまたま訪れた図書館で偶然なんとなくパッケージが優しいので何の気なしに手に取って読んだ本、
森達也著「いのちの食べかた」
一頭の牛や豚がどのような作業を経て発泡スチロールのパックに入るのかのその間の過程を消費者は分からないのに疑問にも持たずに大多数の人が考えるのを止めてしまっていることについての真の理由から
部落差別をはじめとする世界に存在するあらゆる差別やどうして戦争は無くならないのかという定義を中学生にも分かるように書かれているので私でも読めたのですが、
私はこの本の冒頭に書かれている言葉、
「人は愚かだと昔からよく言われていたけれど、知っていることを間違えるほど愚かじゃない。
知らないから人は間違う。
何が大切で何がどうでもよいかの判断は、知ってから初めてできる。
知らなければその判断もできない。」
私が今回アウシュビッツに行って分かったのは
ここであった出来事は
いまでも自分の周りで起こっている日常の問題と大小の差はあれ
さほど違いはなくて、
それが増幅し閉鎖した空間で起こってしまった止められないメルトダウン、
それがアウシュビッツだと知りました。
絶対に繰り返しちゃいけない歴史で
目をそらしていては間違いなく人類は同じことするとこの旅行で学んだので
このブログでもホロコーストについて書きます。
駐車場でバスからおりるとすぐ、元アウシュビッツ収容所1号棟の前でした。
現在ではここが「Museum Auschwitz 」
アウシュビッツ・ビルケナウ記念博物館入り口です。
そして嬉しいことに、ガイドはやはり中谷 剛(なかたに たけし)さんでした。
中谷さんは学生時代の1980年に観光でアウシュビッツを訪れとても衝撃を受け
『これは誰かが伝えて行かなくちゃ』と考え
言葉や歴史を勉強して、超難関のオシフィエンチム博物館公式ガイド資格を取得されました。
受付の前には自動販売機がありました。
アウシュビッツにスニッカーズが最初見たとき違和感あったのでなんか撮りました。
こういうテーマでもこういった画像を載せるのはこのブログらしさと思ってください。
専用のガイドレシーバを受け取って
敷地内に入ります。
アウシュヴィッツはポーランドとチェコの国境に近いオシフィエンチム村にあります。
アウシュヴィッツはドイツ語名で、ポーランド語ではオシフィエンチム(Oświęcim)
チェコの人もそうでしたがポーランドの人も年配の方はドイツ語を嫌う傾向にあるそうなので
アウシュビッツとの呼び名を嫌うそうです。
有名なゲートが見えてきました。
監視塔。
Arbeit macht frei (「働けば自由になれる」)とドイツ語で書いてあります。
この門をくぐったユダヤ人の80%以上が死亡しました。
ArbeitのBが上下ひっくり返っているのは、作った人たちの抵抗の証しだそうです
アウシュヴィッツでは、収容者で楽器が出来る人たちを集め音楽隊を作らされました
アウシュビッツ音楽隊の仕事はホロコースト遂行のために列車で輸送されてくる人たちを 迎えるために、
朝、収容者たちが過酷な強制労働に出かける時、夕方戻る時に、看守による人数の把握を容易にするために、
ガス室送りの人々の鳴き声や叫び声を、 周囲の人の住民に聞かれないようにするために、時にはナチスの快楽のために演奏しました。
そのことによって音楽隊員は生き延びる可能性が少し高くなり、
数少ない生き証人としてアウシュビッツの実像を伝えました。
アウシュヴィッツには強制収容所は三つあったのですが、維持費の関係から第三アウシュヴィッツ(モノヴィッツ収容所)は取り壊されたそうです。
アウシュビッツ収容所は当初、14棟の平屋、6棟の二階建ての合計20棟のバラックだったのが、
1941年から1942年にかけ「囚人」を労働力として、平屋のバラックをすべて二階建てとし、新たに8つのバラックが建築され、合計28棟になりました。
当初この収容所はポーランド人の政治犯を収容するために設立され、ポーランド人虐殺の場として作られました。
しかし、戦火が進むと、ナチスドイツは全ヨーロッパの人間おもにそれぞれの国籍を持ったユダヤ人やジプシー、ソ連軍の捕虜が収容されました。
「囚人」には、ポーランド系以外に、チェコ人、ユーゴスラビア人、フランス人、オーストリア人などもいたそうです。
ここでユダヤ人250万人と他民族の150万人が殺されたとされていますが、
正確な死者の数は今現在でも分かっていません。
その理由は資料の多くが真実の発覚を恐れたナチスの手によって破棄されてしまっていることや、
ユダヤ人の多くは囚人番号を与えられることもなくガス室で殺されたためです。
ガラスの容器の中に入っているのは、犠牲者たちの灰です。
中谷さんのガイドは噂通りの静かで落ち着いた語り口で、けして強く自分の感情は出さずに訪問者に自らに考える事を促します。
続きます。