東京国立近代美術館で開催されていた 「生誕100年 岡本太郎展」
行ってたのですが、載せてなかったのであげます。
また終わってる展覧会ですいません。
このブログ、岡本太郎さん、三回目になります。
音声ガイドの声はNHKのドラマで岡本敏子役を演じた、常盤貴子さんでした。
この展覧会は、「 対決 」 をキーワードに,
岡本太郎が立ち向かった相手を7つの章に分けて見せる構成です。
プロローグ:ノン!
「ノン」(1970年)
岡本太郎
さまざまな常識や権威に、「否(ノン)!」をぶつけてきた岡本太郎。
その“否定”の意思を表した象徴的作品≪ノン≫
身体の前に突き出した両手で権威や常識などに“ノン!”
私のインプレッションはカレーパンマンに似てるなぁです。
第1章 ピカソとの対決--パリ時代
1930年1月、パリに渡った岡本太郎は以後約10年間滞在しました。
1932年、太郎21歳の時に偶然立ち寄った画廊で運命と出会います。
ピカソの抽象絵画「水差しと果物鉢」見て衝撃を受けました。
パブロ・ピカソ《水差しと果物鉢》(1931年)
ピカソに感動 して運命をひらく以上、まったくピカソとは反対の表現をとる。
つまり、ピカソに挑み、 乗り越えて、むしろ、反ピカソでなきゃならない。
「ピカソを超える」事を決意し、以後は抽象芸術に道を求め、創作に打ち込むようになりました。
《傷ましき腕》 1936年/49年
傷ましき腕は、パリ時代、25歳の時に描かれた岡本太郎の代表作
切り裂かれた傷口から生々しく溢れ出る現実
観る者を独特の緊張へと導く。
ちなみにこの作品は1936年に制作されたのですが、パリ時代の作品はすべて戦災で消失してしまったので、戦後の太郎さん自身による再制作です。
第2章 「きれい」な芸術との対決—対極主義
森の掟 1950年 油彩/キャンバス
「今日の芸術は、うまくあってはいけない。
きれいであってはならない。
ここちよくあってはならない。」
と宣言しています。
これは手先の巧さ、美しさ、心地よさは、芸術の本質とは全く関係がなく、
むしろいやったらしさや不快感を含め、
見る者を激しく引きつけ圧倒する事こそが
真の芸術と説いています。
第3章 「わび・さび」との対決--日本再発見
一昔前までの日本では
縄文土器を見て、ただの当時の生活が判る『物品』としか考えられておらず、
日本美術史にも縄文土器は入っていませんでした。
太郎さんは、東京国立博物館にあった縄文火焔土器を見て、
「なんだこれわっ!」って叫んだそうです。
「こんなパワーはいままでない!これ以外は美術品ではないっ!」
と
このことを美術雑誌に発表し、フランスの日本展で火焔土器を紹介したことにより、
浮世絵と並ぶ美術品として世界へ知らしめました。
現在では『美術科』の教科書にも、土器や土偶が載るなど、
日本の教育カリキュラムをも書き換えてしまいました。
第4章 「人類の進歩と調和」との対決—大阪万博
「人類の進歩と調和」をテーマにした1970年の大阪万博。
テーマ館のプロデューサーを依頼された岡本太郎は、そのテーマに真っ向から否定する
原初的なパワーみなぎるモニュメント
《太陽の塔》作りました。
人類はちっとも進歩していない。
確かに科学技術は進歩したし、
物質的には進歩したと言えるのかも知れない。
しかし、人間は全然進歩してない。
卑しいままだ。 だからこそ、
自分は、生命の樹という形 (太陽の塔の中にある)で、
命が太古の昔から
ずっと続いているということを表現したかった。
太陽の塔の50分の1の縮小版や、構想スケッチ、
製作過程の映像などが見られました。
第5章 戦争との対決—明日の神話
≪明日の神話≫下絵(部分) 1968年/川崎市岡本太郎美術館蔵
メキシコオリンピックにあわせ高層ホテルの依頼で制作しながらホテルの倒産により長年行方不明になっていた巨大な壁画「明日の神話」。
現在、渋谷の駅通路でパブリックアートになっています。
素敵なことしてくれる大人たちもいるものです。
「 殺 す な 」。
自らも軍隊体験者だった岡本太郎さんが
ベトナム戦争の戦火が広がる1967年、ワシントンポスト紙に太郎の書3文字の反戦意見広告をだしました。
第6章 消費社会との対決—パブリックアート、デザイン、マスメディア
太郎さんは
とにかくあらゆるものに
反旗をひるがえします。
こどもの樹 1985 川崎市岡本太郎美術館
青山のこどもの城にある「こどもの樹」の何分の一かのFRP
「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」グラス
キリンのウィスキー『ロバートブラウン』のノベルティとして買ったらタダで付いてきました。
出演したCM,や「今夜は最高」の映像が流れていました。
存在自体がメッセージであり作品性を持っています。
このテレビタレントとしての展開は賛否両論で
エキセントリックな変わり者として太郎さんを見る人が多かったからです。
当時小学生だった私もその一人だったのでよく分かります。
ただ、だから誰もが岡本太郎を忘れず記憶に残り、時代を超えた老若男女の中で一番に頭に浮かぶ日本の芸術家たる所以なのだと思いました。
存在そのものが芸術で爆発です。
第7章 岡本太郎との対決
《にらめっこ》 1978年
太郎さんのライフワークであった、「眼」の作品がこれでもかと壁一面に張られていて
こちらを見つめます。
エピローグ:受け継がれる岡本太郎の精神
岡本太郎さんは1996年に亡くなりました。
その没後に再評価されるきっかけをつくった
公私ともにパートナーだった岡本敏子の手書き原稿などが展示されています。
公私ともにパートナーだった岡本敏子の手書き原稿などが展示されています。
その力強い言葉を改めて人々に広めました。
海洋堂のオリジナルアートピース(ガチャガチャ)が大人気でした。
今回の岡本太郎展での一番の感想は
国立近代美術館の展示構成が素晴らしかったということです。
入り口が岡本太郎の顔を摸した巨大な半分に割れたパネルで
通った鑑賞者は、まるで頭の中をのぞくかのように
ほぼ時系列で太郎さんの人生はあらゆる既成の価値観に対する「対決」であった事、
それを絵画、彫刻、写真、デザインなど約130点にも及ぶ展示で
展開し観させてくれる非常にボリューミーで楽しいコンストラクション
体験できてよかったです。