2011年4月5日火曜日

チェコ旅行 17 エゴン・シーレ・センター

チェスキー・クルムロフにはエゴン・シーレの美術館がありまして、私はそんなに好きな芸術家ではないのですが、せっかく来たのだからの義務感で入ってみました。 エゴン・シーレは28歳という若さで夭折した世紀末ウィーンを代表する画家の一人です。

川沿いに建つアートセンター。もともとはビール醸造所だった建物で、カフェも併設されています。


エゴンシーレ1916年作の「クルマウの風景」が2003年6月、ロンドンの競売サザビーズで約24億円で落札されました。


この街「クルマウ」は、「チェスキークルムロフ」のことです。

シーレの母親が生まれた場所で、自身も住んでいた時期があったそうですが、彼の作品が卑猥であったため市民に追い出されたといいます。


エゴン・シーレの作品にはヴァリ・ノイツェルという素性の分からないシーレより四つ下の恋人が出てきます。
左「ほおずきのある自画像」(1912)。右が「恋人ヴァリーの肖像」(1912)      

彼女は、シーレの師クリムトのモデルの一人であり、愛人でもあったのですが、クリムトが「美術上の問題としてシーレにヴァリをぶつけたのです。

二人の同棲生活が始まりました。

エゴン・シーレとヴァリが創作に没頭するためにノイレングバッハに住んでいた時に

家庭に問題のある家出少女をかくまって、未成年者誘拐並びにわいせつ図画を未成年者に見せた罪で、24日間拘留されていた間も、ヴァリは片時も離れずにエゴン・シーレに寄り添っていたようです。


しかし、シーレと約4年間の同棲生活にも終わりがきました。


原因は、エゴン・シーレが結婚相手として別の女性を選んだからです。制作にモデルとして献身し、受難の日々には彼を支え続けた一人の若い女性を捨てたのです。

黒井千次・著「永遠なる子供 エゴン・シーレ」の中で「出自も定かならぬ、ただひたすらに現在を生きるだけの女性と、しっかりした両親のもとで健全な家庭生活を送り、中産階級にふさわしい教養を身につけた女性との勝負ははじめから明らかだ。結婚という契約、家庭という形式には、もともとそういう残酷なものがひそんでいる」と同時に「結婚生活がうまくいけばいくほど、彼の絵は死んでいった」とも書いています。
シーレの代表作の一つ「死と乙女」(1915) この死神がシーレで、それにしがみつく女性はヴァリーと言われています。この作品が作られた年にシーレは恋人ヴァリーと別れて、エディットと結婚します。

どんな気持ちで彼はこの絵を描いたのでしょうか?

シーレと別れたのちのヴァリは、結婚することなく従軍看護婦となり1917年に野戦病院で亡くなりました。二十三歳でした。

その翌年1918年10月28日、当時ヨーロッパで流行していたスペイン風邪により妊娠中であったシーレの妻エディットが亡くなります。

そしてその三日後にエゴン・シーレ自身も同じ病で亡くなりました。

エゴン・シーレが、1906年にウィーン美術アカデミーに入学した翌年に、エゴン・シーレよりも一つ年上のアドルフ・ヒトラーもウィーン美術アカデミーを受けたのですが、落ちました。
で、この美術館は小さい街の中にあるのにも関わらず、三階建でかなりスペースが広いのですが、エゴン・シーレ自体の作品は少なく、他の現代芸術家の作品が大半でした。






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