2012年4月26日木曜日

ポーランド旅行 20 ワルシャワ市内観光

明日は朝早く起きたら帰国のために空港に向かうので実質この日が観光の最終日になりました。

朝食の写真は回りにスーツ着た支配階級の上位に位置するであろうホワイトカラーがたくさんいたので撮れませんでした。




9時ロビー集合でした。

そしてこの方が今日一日ガイドしてくださるヨランダさんです。






間違いなく数年後にはこの町並みどんどん変わっていってしまうでしょうから

今のワルシャワの風景を写しておきます。









ワジェンキ公園前で降りると、ユゼフ・ピウスツキ元帥の像がありました。


第一次大戦後独立ポーランドの初代国家元首となったユゼフ・ピウスツキの像です。

そして常日頃から疑問に抱いていた何ゆえ、こんなにもポーランドには親日家が多いかの理由が少し分かったのですが、日露戦争の時に当時ポーランドはロシアの植民地であった故に、
危険な最前線に送り込まれたのはポーランド人でした。

彼らにはロシア皇帝に対する忠誠心など当然ありませんので続々と日本軍に投降しました。
そして日本軍は捕虜とは思えないほどの候待遇で迎えたのだそうです。


更にその戦争でロシアを破った日本人にポーランドの人が好感触をそれは抱くだろうと納得しました。


ベルベデーレ宮殿

17世紀半ばに出来た宮殿で、ナチス・ドイツのフィッシャー総督の宿舎に使われたことにより
第二次世界大戦の戦禍を免れました。

大統領府

ワジェンキ公園

ワジェンキとは「浴場」の意味で、 公園内に散在する各離宮に素晴らしい浴場があったことからこう呼 ばれるようになったそうです

このベンチ型の案内板はいたるところにありまして

押すところがありショパンの曲が流れるのですが

音が出る所とでないとことが多々ありました。




ショパン像




ワジェンキ公園は、ポニャトフスキ王が1766年から30年かけて造成したそうです。

聖アレクサンドル教会





新世界通りをバスで走りながらヨランダさんのガイドを受けます。
なんでも土曜と日曜日この通りは歩行者天国になってバスの運行路が変わるそうなので、ご旅行される方は注意してください。



ポーランド科学アカデミーの前にコペルニクス像があります。

観光ポイント付近には、手前にある様な写真入りの解説パネルが設置されています

ポーランド科学アカデミーは第二次世界大戦で破壊されたので戦後に復活したものです。




コペルニクスはワルシャワ出身の天文学者で、天動説の間違いに気付き地動説を唱えた人物ですが、
地動説をまとめた書「天体の回転について」を死の直前まで公表しませんでした。

当時そんなことを唱えたらどんな迫害をキリスト教からうけるか分からなかったからです。



その約一世紀後にガリレオ・ガリレイが地動説が正しいことを証明しましたが、

一般の人たちからは変人扱いされローマ教皇庁による裁判で有罪になり

一生、監視付きの邸宅に住まわされ、散歩のほかは外に出ることを禁じられました。

1992年ガリレオの死から350年後にようやくローマ教皇はガリレオ裁判が誤りであったことを認め、
ガリレオに謝罪しました。



ワルシャワ大学の門があります。ショパンもここで学びました

その向かいに聖十字架教会があります。

第二次世界大戦中には、ドイツ軍の攻撃 によって、教会の3分の1が破壊され、ショパンの心臓も持ち出されたそうですが、戦後、教会は建て直され、ショパンの 心臓も命日である1945年10月17日に元の場所に戻されました。

聖十字架教会前のキリスト像







ちょうどあのあひるのあたりにショパンの心臓があるそうです。





ショパンは遠く離れたパリで 生涯を閉じましたが(お墓もパリにあります)

ヨランダさんの説明で、フランス人にショパンは何処の国の人と答えると自国だと言うでしょうけど、
20歳までポーランドに住んで、それから音楽の勉強のためにウィーンに旅立ち、そして、二度と祖国に戻ることなく、39歳でなくなりましたので生涯で一番長く時を過ごした場所がポーランドなのですよとユーモラスに語られました。

たしかにショパンはフランス人とのハーフでしたが、家族はずっとポーランドに住んでいたし、その頃のポーランドは情勢不安で革命が勃発していたり、大切な家族はポーランドに入るのに帰りたくても帰れないというジレンマに苦しんだそうなのです。

1849年、ショパン39歳の時に

健康がすぐれない、会いたい、看病に来てほしい
と祖国ポーランドの母に手紙を送りました。

老齢の母は行けず、代わりに姉
ルイーズがやってきたのは8月に入ってからです。
しかしこの再会はショパンにとってはとても喜ばしいものでした。
ショパンは9月にはヴァンドーム広場の近くに引っ越をしました。

すぐ近くにはマドレーヌ寺院があります。この家には多くの友人や同郷人が見舞いに訪れました。



10月になるとショパンの容態はいよいよ悪くなります。

10月17日、ショパンは姉や友人達に看取られつつ10月17日、パリでなくなりました。




「ぼくの心臓を故国に帰してほしい」



遺言から姉は心臓を90度の酒につけポーランドに持ち帰りました。


ショパンの心臓が納められている石柱には


ショパンの胸像と追悼文、


「あなたの宝の場所に、あなたの心があります」


と書かれています。











ここの学生だったヨランダさんの説明ではこの奥が「泣きの壁」と呼ばれる所で

大学の合格発表が貼り出されるからだそうです。

図書館

「万年学生の像」だそうです。このブロンズ像の隣に座ると永遠に学生でいられるとの逸話があるそうです。


このワルシャワ大学の構内にある建物が、
ショパンがワルシャワに移って最初に住み10年間暮らし幼少期を過ごした家です。

現在はワルシャワ大学東洋学部日本学科と韓国学科が入っています。







大学構内の敷地ないの道に不可思議なペイントがあり、私はヨランダさんに
「これって現代アートですか?」とたずねると水道管の工事だと言われました。


チャプスキ宮殿です。 かつてのクラシンスキ宮殿で、現在は美術アカデミーとなっています。

法王がここにもおりました。

コメントで指摘いただけました。ヴィシンスキ枢機卿の間違いでした


大学に隣接するヴィジトキ教会

18世紀後半にバロック様式で建てられました。

第二次世界大戦時、ナチスにより71棟あった建築物のうち65棟を破壊されましたが、

奇跡的に破壊を免れた、数少ない教会です。

ショパンが学生の頃にこの教会でオルガンを弾いていたそうです。




2012年4月25日水曜日

ポーランド旅行 19 卒業

もう半年近く前の旅行ですので、色々と記憶がlost仕掛けているのですが、撮った写真と後藤さん手書きの
毎日の
日程表のおかげで旅の記録をほぼプレサイスに載せれます。


Holiday Inn Warsaw(ホリデイ・イン ワルシャワ)

スーペリアクラスのホテルとの事で、私が今まで泊まった中で一番高級でした。



このホテルは文化科学宮殿のすぐ近くで、ワルシャワ中央駅と2009年位に出来たばかりの
ワルシャワ随一のショッピングセンターの隣にあるので
とても交通の便優れています。


夕食はケーキ食べ放題とかあるバイキングでした。


私はこの旅行中、緊張によるストレスなのか食欲が極端に減反していまして、
こういった食べられる量だけ自分でよそれる形式は非常に助かりました。

ましてやこの日は
午前中アウシュビッツに訪問していた事もありサラダと果物しか口に出来ませんでした。




また部屋を動画で撮ってました。


アメリカ資本のホテルなのだそうで、アメリカンタイプの客室です。

シャワーの勢いがよくてうれしかったです。




しかし、あらためて私はアウシュヴィッツ訪れた日の晩に一人でなにやってるんでしょう?

みっともないにもほどがありますぎます。





こんな情けなくて貧相きまわりない哀れで滑稽なミゼラブルな醜態、

あひるの元ご主人は見ていたとしたらどうお考えなんでしょう?


今となっては永久に知りえることが出来なくなりましたけど