それでは今はもう解体されてしまったかもしれない、
船の科学館の別館だった青函連絡船”羊蹄丸”(ようていまる)をご紹介します。
青函連絡船とは1908年(明治41年)開業から1988年(昭和63年)の
青函トンネルが開通するまでの80年間ものあいだ、
青森県の青森駅と北海道の函館駅との間を結んでいた定期連絡船のことです。
この羊蹄丸は二代目で、
初代は昭和23年から昭和40年までの17年間、
この羊蹄丸2世は昭和40年の就航から昭和63年の最終運航まで活躍しました。
総トン数8,311.48トン、全長132m、最大速力21.16ノットで青森 - 函館間を現在(津軽海峡フェリー)と同じ
3時間50分で結び、海の新幹線と呼ばれていました。
ちなみに21.16ノットは39.18Km/hです。
青函連絡船廃止後は船の科学館が購入し、1992(平成4)年にイタリア・ジェノヴァで行われた
「国際船と海の博覧会」の日本館パビリオンとなった後、
船の科学館別館としてこの地に展示されていました。
船尾には貨車を積み込むためのレールが見えます。
青函連絡船最大の特徴は中に鉄道車両(貨車)を収容することが可能なことです。
青森駅に着いた列車は青函連絡船に収容され、函館駅でおろされ、また鉄道線路に戻ります。
船の科学館閉館で年間約3千万円掛かる維持費の捻出が難しくなるので、
希望者に無償で譲ることを決めたました。
エンジンは外されているが、海に浮かべることはできて
運搬費用などは譲り受けた人が負担するのが条件でもありました。
羊蹄丸を引き取ったのは、愛媛県新居浜市や新居浜高専などが作る団体
「えひめ東予シップリサイクル研究会」というところで
目的は
開発途上国で行われてきた劣悪な環境下での船舶解撤を規制するため2009年採択された
『シップリサイクル条約』への対応のためとの事なのです。
現在、大型船の解体は、その大半がアジアの発展途上国で、極めて危険かつ、劣悪な環境で解体されており、残積物の油や化学物質の流出、断熱材のアスベストによる健康被害が叫ばれている理由が歴然と分かるのが上の動画です。
船舶のリサイクルに伴う環境汚染や労働災害を最小限に止めることを目的とする法律で
2013年中には発効となる見通しです。
循環型社会の構築、鉄資源の確保などを目指した『先進国型シップリサイクルシステム』確立のため、
実際に“羊蹄丸”を解撤しながら環境に配慮した解体技術の実証を行うのだそうです。
解撤とは解体し、撤去することを言います。
私は最初
なにゆえ、解体を予定する 団体に譲渡するのか不思議に思ったのですが、
なんでも当初、申し込みが30件以上あったと発表されていましたが、
正式には11件しかなくて、
しかもそれらは実現性に疑わしいため採用されなかったそうだそうです。
中途半端な団体に譲渡して無残な廃墟状態になるよりは、
これからの船舶・海洋事業の有効活用ためにも
しっかりとした団体に解体し研究してもらう道を選んだということらしいです。
エンジンは外されているため自走できないので、 タグボートがえい航しながら最期の地に向かいます。
解体を前に、 愛媛県新居浜にある新居浜東港の黒島埠頭で4/27~6/10まで最後の一般公開が行われた後、
羊蹄丸は7月に解体となります。
羊蹄丸は7月に解体となります。
私は電車に興味ないので知らなかったのですが
船の煙突部分にある「JNR」とはジャパニーズ・ナショナル・レイルウェイズの略で、
国鉄時代のJRの略称でした。
鋼板を切抜いて表現されたこのマークは鉄道好きには堪らないエンブレムなのでしょう。
国鉄民営化後にはJR北海道のロゴに取り替えたそうですが、
船の科学館で展示するにあたり再びJNRに復元したそうです。
なんでも船の煙突部分は、最初は煙りで汚れるので、煤(すす)が目だたないよう
黒く塗られただけだったのが、しだいに船会社が様々に模様を付け
ファンネルマークと呼び識別出来るようにしたそうです。
最初は入り口ロビー入って右手にある
人と海と船をテーマとした参加型の展示空間
「シー&シップワールド」に進みます。
入口では 「ひげ船長ロボ」がお出迎えです。
かくかくと動きながら色々とこの世界について
則巻千兵衛の声で(内海賢二)色々語ってくれました。
イルカにのった少年がいました。
向かいのスクリーンに映像が
海のシーンに合成されて表示されます。
「天才てれびくん」じゃないですか。
水中スクーターで、海中散歩が楽しめます。
お姉さんが手招きしています。
着いて行きます。
行っちゃいました。
宝箱がありました。
人魚さんが現れて
無事ゴールです。
さあっ
気を取り直して下のフロアーに進みます。
こちらは昭和30年の青森を再現した「青函ワールド」というスペース 船内にあるかつての車両甲板を改造して作った、巨大ジオラマ
昭和の30年代の、青森駅に有った、リンゴ市場を再現しています。
なんでも小道具の一つ一つにも細心の注意を払い、
犬2匹・猫1匹を含むすべての登場人物39人には
名前と年齢・プロフィールを設定されているそうです。
担ぎ屋さんは何十キロもの荷物(食料品)を背負って青函を往復し、
戦後の食糧事情を支えた人たちだそうです。
大道芸人のクートンさん。
カレーが100円です。
ミニシアター「青函連絡船ドキュメンタリー海峡の詩」が約6分程度上映されていました。
バックには大音量で津軽海峡冬景色が流れていて、
この時に聞いた冷たく悲しいメロディが
当時の私の心に深く響き忘れられず、
思わず
クラクフのホテルでYoutubeで
この曲をかけながら
人形かと思ったら見物客で動いたりするので驚きます。
この船が壊されたらこの人形たちどうなるのかと思いましたら、
青函ワールドジオラマ残し隊の皆さんのお力で
青森市にある旧青函連絡船「八甲田丸」内に展示されることになりました。
青森市は移設費を捻出、約3500万円をかけて持ち帰ります
そんなに遠くないほんのちょっとの昔の前までは、
汽車を乗り継いで本州の果ての青森まではるばるたどり着いてから。
そこから四時間近く青函連絡船に乗らないとたどりつけなかったとは
昭和の時代の北海道はずいぶん遠かったのですね。
地下のシアターでは、青函連絡船の誕生から国鉄民営化、青函連絡船終航までの
80年の歴史を記録した1時間40分に及ぶドキュメンタリーを上映していました。
青函物産展示コーナー 名産品が並んでいるのですが 販売はしていません
ほしかったら青森・函館に行けってことですね。
休憩室&展示室
ブリッジ(操舵室)
突然ですが、
洞爺丸(とうやまる)事故をご存知ですか?
この羊蹄丸をブログにとりあげたなら書いておかないと
と思うの気持ちだけで採り上げます。
1954年(昭和29年)9月26日に青函航路で台風第15号により起こった、
国鉄の青函連絡船での海難事故のことで、
死者・行方不明者あわせて1155人に及ぶもので
戦争が原因のものを除けば当時はタイタニック号・サルタナ号の事故に次ぐ世界第3位、
現在でも世界第4位の海難事故です。
洞爺丸は、戦災で壊滅した青函連絡船の復興のため、
国鉄がGHQの許可を受けて建造した車載客船4隻の1隻で
そして初代の羊蹄丸もそのうちの一隻でした。
事故当日、台風通過のため函館埠頭では「洞爺丸」(近藤平市船長)
青森埠頭では「羊蹄丸」(佐藤昌亮船長)が乗客を満載して出航を見合わせていました。
風雨が弱くなり晴れ間が見えて台風の目が現れました。
しかしおかしいのが台風の目が通過したなら気圧は上がるはずなのに
晴れ間のあと気圧が依然として下がっていたそうです。
実はこの晴れ間は閉塞前線がもたらした偽りの目で
本物の台風の中心は、函館西方の日本海上にいました。
二人の船長の判断は分かれました。
ベテランの近藤船長は出航し、近藤より8年後輩の佐藤船長は出航を見合わせたのです。
佐藤船長の決断は定時運行がなによりの使命である国鉄でかなり勇気いるもので
乗客たちからは
「なぜ船を出さぬ」「優柔不断で日和見(ひよりみ)だ」という非難の声をあびせられました。
しかし、この判断の分かれ目により洞爺丸は沈没し、死者は乗客乗員をあわせ1172名という、
日本海難史上最大の惨事になり、
羊蹄丸の乗員乗客1300名は九死に一生を得ました。
羊蹄丸の佐藤船長は後に神様扱いされる自分に対して答えました。
「むしろ自分は日和見(ある定まった考えによるものではなく、形勢を見て有利なほうにつこうという考え方)で臆病だった。
神様という言葉は30年間無事故だった近藤船長にこそふさわしい。
でも所詮人間は神様ではないのだ。ベテランだからこそ持つ、
ほんの少し自分より多い、自然に対する自信が仇となった。
人間は自然を畏れるべきなのであった。 」
この洞爺丸事故を契機に、青函トンネルの実現に向けて、その計画が具体化していくことになりました。
そして洞爺丸海難事故の悲劇を教訓として生まれた
「連絡船近代化計画」のもと
あらゆる最悪の事態を想定した上での「人命安全」のしくみを備え建造されたのが
この二代目羊蹄丸なのだそうです。
で、また突然なんですが、歩いてたら扉が開いていたので
入ってみましてそのまま進んでたら部屋がありました。
普通に電気点きましたよ。
別に不法侵入するつもりはなかったのですが、
この時、本気で迷ってしまい
出られなくなってあせりました。
おもむろに歩いていたら
思い当たる入り口フロアーに向かう場所に出れました。
これからの船はバリヤフリーを考慮して作られるのでしょうね。
ままにならない世界ですけどこういう部分はどうなるかが私楽しみです。
羊蹄丸IIのマークは、イルカと蝦夷富士をデザインしたものです。
羊蹄丸
当初は、ここで「永久保存」される予定でした。
自力で航行できない船の維持費で3000万掛かるのではペイするのが難しいのでしょう。
費用を負担し、保存できる新しい引受先が現れなかったため
羊蹄丸は取り壊されることになりました。
運航期間22年7か月、
総運航回数35,826回、
総運航距離4,035,060Km(地球101周相当)、
延べ旅客数11,783,164人。
昭和がまた
ひとつ
消えていきます。
最後に、青函連絡船が廃止されたのは1988年、私が中学三年生の時なので
当時、盛んにテレビで取り上げられていたのを覚えています。
ですが、タモリさんと同じで、実際乗ったことはないので、
思い入れとか正味
自分無いことに、ホットない胸をなでおろします。
自分無いことに、ホットない胸をなでおろします。
どうしてそう考えたかと言いますと、
この人の寂しいという気持ちが痛いほど分かりました。
大切に思うものが、
無くなってしまうのは
悲しくて嫌です。
「形あるものはいつか壊れる」ということわざがありますが、
人の心もすべて不変なものなど
この世に存在しない
変わり行くのがこの世界
と割り切って生きていくしかないのでしょうか。
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