2015年8月12日水曜日

ヨーロッパ一ヶ月バックパッカー63 イエナ光学博物館


ハンブルグの次にイェーナに来た目的は



この地に1846年、

ドイツの光学機器製造会社カール・ツァイス社の設立された場所で

そこに

ツァイスプラネタリウム
Zeiss-Planetarium

存在しているからです!

まずは

チケットを買わなくてはと

受付に行きます。

受付はここではないようなので

案内されました。

無事チケットは買えたのですが、

投影までかなり時間があるので


その前に今晩の宿をネットで探します。

ブッキングドットコムで

最安値で検索して

一番今自分のいる場所から近いところをサーチする方法です。

検索したら

歩いて行ける

すぐの場所に

ホテルありました。

向かいます。



Wagnergasse(ワーグナーガッセ)

カフェごはん






Gasthof zur Schweiz ガストホフ スリンガー ホフ

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シングルなのに

広かったです。



53ユーロでこのお部屋

とても居心地よかったです。

バックパックを部屋に置いて

身軽になります。











カールツァイス通り(Carl-Zeiss-Strasse)

この辺りに、かつてのツァイス工場がかつてあったのですねと

大のプラネットフィリアな私にとって

カールツァイス通りなんて名づけられた場所を

歩けるなんて

まさに

痛快ウキウキ通り(小沢健二)であり

また

痛快!ロックンロール通り(後藤久美子)でもありました。


ショッピングモール「ゲーテギャラリー」

後で入ります。

カールツァイス広場にあるアッベの霊廟

エルンスト・アッベ  ( Ernst Abbe : 23jan1840-14jan1905 )

1840年1月23日アイゼナッハにて生まれる。
父は紡績工場で働いていたが毎日14時間以上働きづめの状態で貧困な生活を送っていた為、
息子のアッベをギムナジウム(高等中学校)に進学させる余裕はなく、
まして大学教育を受けさせることなど念頭になかった。
しかし父の雇用主がアッベの類稀な頭脳を見抜き、アッベが奨学金を受けられるよう計らった。お蔭でアッベはでイエナ大学に入学し、博士号習得。

そして若くして教授に任命された。
 積極的に研究に打ち込むも、大学から出る研究予算は微々たるもので、

思うような研究はできなかった。

1866年のある日、26歳のアッベは50歳のツァイスと面会しスポンサーを依頼。交換条件に顕微鏡製作上での理論式を導くことになった。これがきっかけとなりアッベの数学理論が応用された顕微鏡が製造される。その後、ツァイスの精神と新種ガラスの研究にアッベは徐々に惹かれ、カール・ツァイス社の共同経営者として迎えられる。


 ツァイスの没後、アッベはツァイスの息子を説得し、カール・ツァイス財団を設立。アッベの幼少の心に焼きついた父の苦悩の為か、いち早く社会保障制度を導入する。これは当時、経営者が1日14時間労働か12時間労働か議論をしていた時代に9時間労働を規定したものであり、1900年4月1日には念願通り8時間労働を実現。現在の労働時間の先鞭をつけた。 



 財団設立後、社名は自分の名前に変えることも可能であったが、律儀なアッベは尊敬するツァイスの名前を引き継いだ。しかし残った人々の心にアッベの名前は深く刻まれ、今でもその功績が讃えられ、旧東ドイツのイエナ市内では、


今でもあちこちにアッベのモニュメントが残され、町のシンボルになっている。


プラネタリウムの投影前に

こちらにもよりました。


  1. Optical Museum Jena 
  2. 美術館・博物館
  3. 住所: Carl-Zeiß-Platz 12, 07743 Jena, ドイツ

Optisches Museum der Ernst-Abbe-Stiftung

5世紀に渡る光学機器の歴史を展示した博物館。

運営はCarl-Zeiss社ではなく、

Ernst-Abbe-Stiftung(エルンスト・アッベ寄付金協会)によるものだそうです。

★ 光学博物館 Optisches Museum Jena
住所:Carl-Zeiss- Platz 12
開館:火曜~金曜の10:00~16:30、 土曜11:00~17:00
休み:日曜、月曜、祭日
入館料:5ユーロ

第二次世界大戦の敗戦直後、

東西の分断に伴い、東ドイツのカール・ツァイス・イエナと、

西ドイツのカール・ツァイス・オーバーコッヘンに分かれてしまったのでした。

ドイツ東部にあったイェーナはソ連占領統治下に置かれました。


しかしアメリカ軍はカール・ツァイスの光学技術をソ連にそのまま渡すことを阻止するためソ連軍に先んじてイェーナに入り、

125名の技術者とその家族を拉致、また8万枚の図面とともにイェーナを出発、オーバーコッヘンに移動させ、ツァイス・オプトンとして光学機器の生産をおこないました。

一方ソ連軍はイェーナの工場群を接収、残った技術者もソ連に送った。

これによってカール・ツァイスは東西に分裂しました。


東西分断中の「カール・ツァイス財団の本拠地はイエーナ」でしたが、

ドイツ再統一により、東西に分かれていたカール・ツァイスも統合の道を歩むことにります。


イェーナにあったツァイスは東ドイツの経済の低迷に伴い経営に行き詰まっており、

実質的にオーバーコッヘンのツァイスが吸収する形となりました。


現在もカール・ツァイス本社はオーバーコッヘンに置かれているそうです。

ちなみに

五島プラネタリウムが導入したのは西ドイツのカール・ツァイス社製。

明石や旭川市の投影機は東のカール・ツァイス・イエナ製。

カール・フリードリヒ・ツァイス
Carl Friedrich Zeiss
(1816~1888)

「カール・ツァイス・イェーナ」(現「カール・ツァイス」)の設立者様です。









































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