2016年2月25日木曜日

ヨーロッパ一ヶ月バックパッカー92 アンネ・フランクの家

では

「親愛なるキティーへ」

アンネ・フランク・ハウス

向かいますよ。



オランダも

アムステルダムは

問題なく

グーグルマップが

トラムの

路線まで

案内してくれました。



しかし、

グーグルマップに頼りきりの

底抜けの旅でしたので、

次の国に行くときに

えらい目にあいました。



順番が来たら

書きますね。


西教会前の広場の一角に、アンネの像がありました。

この時

確かもう

19時過ぎてたと記憶してるのですが、

この列ですよ!!

これは確かに

この旅行前に

読んでいた本

「ヨーロッパ鉄道旅ってクセになる!: 国境を陸路で越えて10カ国」

でも

すごい並んでるから

入るのあきらめた

とあるのですが、

そうだよなーと

だってまず第一に


中の画像は撮れないんだもんなと

私も

ポーランドのアウシュビッツ行ってなかったら


中に入るの

諦めてたと思います。


列に並んでいると

パンフレットを配っている人がいて

「何処の国の人ですか?」

と聞かれて

日本語のをもらいました。

ホロコーストの象徴と言われている


アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所

過去に行きまして

ちょっとブログに書いたことが

ありましたので

なんか

一目中を見なければ

という使命が

働いて

並んでます。



なんか

Anne Frank Museum Amsterdam前に

無料の水道が

ありましたよ。


みなさんこぞって

ペットボトルに詰めてました。


タダで街中で

人が飲める

水道があるのって


日本だと不思議ではありませんが、

外国だと

なんか違和感?

珍しい光景に見えます。





並んでいるうちに

閉館時間になっちゃったら

どうしようと

不安だったのですが、


今調べてみますと、

・営業時間
11月1日~3月31日 午前9時~午後7時(土曜日は午後9時)
4月1日~10月31日 午前9時~午後9時(土曜日は午後10時)
7月1日~8月31日  午前9時~午後10時
※2015年9月23日,2016年10月12日,2017年9月30日(ヨム・キプル:ユダヤ教の祭日)は定休日。
最終入場:閉館30分前
写真撮影は不可
・入館料
大人 € 9,00 / 10-17歳 € 4,50 / 9歳以下 無料
(日本語の無料ガイドブック有り)
・公式サイトはこちら(http://www.annefrank.org/)


この時の

時間軸は

2014年6月19日木曜日でしたので、

21時まで開いてますね。


並びたくない人は

ネットで事前に
予約できる
みたいです。

アンネフランクの家

http://ameblo.jp/fergus/entry-11570312772.html

でも

直近2週間くらいは予約枠いっぱいですよ。

Wi-Fi飛んでましたよ。

30分無料でしたよ。

試しに

やってみました。

つなぎ方も

私ができましたので、

簡単ですよ。

パスワードとかはなかったです。


この時は

並んでいるうちに

しまっちゃったら

どうしよとか

ずーっと

考えてました。




入れました。



このパネル撮ってる人がいたから

いいのかなと思って便乗しました。

で、

二枚目この写真撮ったところで

係りの人に怒られました。










それでですが、



私が




隠れ家に入った


瞬間の


素直な感想は



広いなー


家(うち)より全然広いなー




天上も高いし


三階建って



そりゃ

ばれるだろー

って

のが当時の私の


隠れ家に入った最初の素直なインプレッション。





中は

撮影禁止でしたので、


自分が

思い出すために


ネットで拾った

画像を


ちょっと

貼り付け

ますね。

これから

行こうと

考えている

人は

見ない方がよいですよ。


The Secret Annex Online






この動画に出てくる

洗面台の蛇口を

アンネ・フランクが回したのかと


私もおもむろに

ひねったのを

思い出します。

くるくるに回って

水は出ませんでした。




アンネが移り住んだ隠れ家には、フランク一家4人の他に、

ファン・ダーン一家の3人(両親と16歳になる息子ペーター、そして飼い猫)と、しばらく経ってからメンバーに加わる歯医者のデュッセルの計8人が暮らしていました。



隠れ家に通じる扉

本棚の奥の階段を実際に

上がるとき



「うわー本当に来ちゃったよ」


と考えながら

上がりました。



私達の隠れ家の入り口は、いまではしっかりカムフラージュされました。クーフレルさんの思いつきで、ドアの前に本箱を置いた方がよさそうだということになったんです。下へ降りる時は、この戸口でまず腰をかがめ、それから、とびおりなくちゃなりません。
(1942年8月21日 アンネ・フランク)




アンネ・フランクのビルの構造 

アンネの父親のジャム工場

左側が事務所、右側の3,4,5階が隠れ家です。


隠れ家は、表通りからは分かりづらい中庭側ありました。







アンネ・フランクの隠れ家は、8人で生活するには、とにかく狭いものでした。3階建ての建物には、8人分のベッドが並べられています。






アンネ・フランクの隠れ家には、3階部分にフランクファミリーが住んでおり、4階部分にファン・ペルス夫妻と息子のペーターが住んでいました。

壁に貼り付けられた雑誌の切抜きなどは、アンネ・フランク自身が貼り付けたものでした。





隠れ家では、アンネはなぜか、歯医者のデュッセルと同室で寝泊りすることになります。いくら特殊な状況下とはいえ、思春期の少女を中年男性と同室に割り振った判断が正しかったのか、疑問もありますが、こんなところからも大人たちがいかにアンネを子ども扱いしていたかがわかります。


14才の多感な時期の女の子が狭い部屋で、しかも全く知らない男の人と始終いなければならないのは、辛いことだったと思います。
出典2006年アンネ・フランク展デュッセルは、時に感心しない行動を取る人物です。彼にはキリスト教徒の事実婚の妻がいて、彼女からたびたび食料などの差し入れが届いていましたが、それらを専用の戸棚に隠して独り占めしていました。アンネが怒ったのはこの点です。
お世話になってるクレイマンさんやフォスキュイルさん、ベップなどにたいしても、やっぱりけちで、身勝手(みがって)で、なにひとつ分けてあげようとしないことです。
(1943年5月1日)

彼女の怒りは理にかなっています。隠れ家の8人目のメンバーとして彼を受け入れる際に、アンネは不平を言わず、高い理想をかかげて賛成します。ところがやって来たデュッセルが見せる人間の醜(みにく)さに、彼女は失望するのです。
■『NHK100分de名著』2014年8月号より



ユダヤ人が迫害を受けて絶望的な中で、アンネ・フランクとペーターの2人は恋愛していました。

1944年4月28日付けのアンネの日記
『ペーターの首に腕を投げかけ、左の頬にキスしました。そのあと、右の頬にもキスをしょうとした時、唇が彼の唇とぶつかり、そのまましっかりと重なりあいました。激情に持てあそばれて、二人はもう二度と離れないまいとするように、何度も何度も固く抱き合いました』 


アンネと淡い恋に落ちるペーターの屋根裏部屋への階段は、今はのぼれないように、プラスチックの窓で覆われてています。



隠れ家では,隠れ家住人の部屋の割り,食料の分配,机の利用時間,音を立てられないトイレとオマルや沐浴の利用,プライバシーの確保まで,住人相互の対立,葛藤,喧嘩があった。



ナチスのユダヤ人迫害から逃れてドイツからオランダに移住、1940年7月のナチスのオランダ侵攻に伴い、1942年7月からの隠れ家生活を開始し、1944年8月の発見・連行されるまでの2年間を過ごした場所です。

アンネ・フランクはソ連軍の侵攻の前に「アウシュヴィッツ収容所」から「ベルゲン・ベルゼン収容所」に移送され、収容所がイギリス軍に解放される約2ヶ月前の1945年3月に姉マルゴーと同じくチフスにかかって15歳で亡くなりました。

母エーディトも収容所で亡くなり、唯一、生き残った父オットーが戦後、日記の出版やこの資料館の開設に力を尽くしました。






アンネの寝室の壁に貼ってあった映画スター、グレタ・ガルボの写真やイギリスのエリザベス女王の絵ハガキなど74点の資料は、記念館開設後50年近く経ち劣化が進行しているため、修復に取り掛かりました

1998年に修復計画が立案され

2008年8月に修復が完了しました





原物の修復だけでなく、照明を交換したり、温湿度も24時間一定にするよう設備を導入しましたそうです。












『アンネの日記』は各国語で翻訳され、世界中で読み継がれています。アンネ・フランクの家は、1960年に公開され年間100万人が訪れています。












    「アンネフランク オランダ」の画像検索結果
    Map of アンネ・フランクの家
    アンネ・フランクの家 
    アンネ・フランクのいえ
    オランダ アムステルダムの博物館
    アンネ・フランクの家は、オランダのアムステルダムにあるアンネ・フランクの一家など8人が1942年から約2年間、ナチスの迫害から逃れるため隠れ家として住んでいた家を利用した博物館である。 アンネ・フランク財団が管理運営を行っている。 ウィキペディア
    所在地: Prinsengracht 263-267, 1016 GV Amsterdam, オランダ
    営業時間: 
    間もなく営業終了 · 9時00分~19時00分
    設立: 1635年


    アンネ・フランク
    著者
    アンネ・フランクは、『アンネの日記』の著者として知られるユダヤ系ドイツ人の少女である。 ドイツのフランクフルト・アム・マインに生まれたが、反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党の政権掌握後、迫害から逃れるため、一家で故国ドイツを離れてオランダのアムステルダムへ亡命した。ウィキペディア
    生年月日: 1929年6月12日


ここから

また自分で撮った

画像に変わります。

「運河と自転車の街 アムステルダム」

運河のどの橋の上にも自転車が多いのは、

盗難防止にワイヤで柵に繋ぐのに便利な場所だから

だそうですよ。



水の都、アムステルダムで欠かせないのが運河クルーズ。

日中の遊覧クルーズにロマンチックな夜のディナークルーズ、

アムステルダム市内や郊外観光とクルーズチケットがセットになった

オトクなツアーなどあるそうです。

私は乗りませんでしたけど。

『アンネ・フランクの家』の前はプリンセン運河に面しています。

でも、隠れ家は

表通りからは

分かりづらい中庭側に

あったので


見ることが

できなかったのだろうな。


「隠れ家」と西教会

アンネの日記で教会の”鐘が聞こえる!”と 日記に書いてあるのは この西教会の鐘の音です。


    「西教会 アムステルダム」の画像検索結果
    Map of westerkerk
    教会
    所在地: Prinsengracht 281, 1016 GW Amsterdam, オランダ
    地上高: 86 m
    建設: 1631年
    営業時間: 
    営業終了

1631年建設のオランダ最大のプロテスタントの教会。

私は全くの無神論者なので

同じキリスト教でも

宗派とか色々違ってたりとか

よくわからないのですが、

ポーランド旅行記で

書きましたが、

日本では


アドルフ・ヒトラーが

ユダヤ人撲滅しようと

企てた

悪の独裁者で



考える人が多いと感じますが、

日本政府は日独伊防共協定を強化してドイツと手を結んでいたから

なのかわかりませんが

ドイツという国が悪いのではなく

ディクテーターであるヒトラーの責任だって

感じで、


少なくとも私の昭和時代での義務教育では

記憶しましたが、




本当はもともと

ヨーロッパでのユダヤ人差別、




ユダヤ人迫害の歴史は2000年前にもさかのぼる根本から根強いもので

19世紀末、帝政ロシアでは皇帝暗殺事件の犯人がユダヤ人だったことから、

ポグロム
(ロシア語で「破滅・破壊」を意味する言葉)

と呼ばれるユダヤ人虐殺が荒れ狂い



またフランスでの

ドレフュス事件
(知らない方はご自分でご検索を)

などは

「反ユダヤ主義」の象徴的事件で、高校の世界史で学ぶそうですが、

日本ではほとんど知られていません。

その理由は

ユダヤ人もユダヤ教も日本と接点がないからだと言われています。


その国々にまつわるそれぞれの

国民だましのプロパガンダ

たとえば


ベトナム戦争は、北と南が戦った戦争ではないというのが

一般的なベトナム人が受けている教育だったりします。

「ベトナム戦争は南と北が一つになって、外国勢力を追い出した戦争だった。」

なんだそうですよ。


考えなければならないことは

当時のドイツでの

事実上の

タイムラインで



ヒトラーは国民の総意の元で独裁者へとなった人だという事です。

その業績はすさまじく


30%を越した一次大戦の敗戦以降の失業率を

公共事業(アウトバーン建設)を通じてほぼ0%へ改善。



「国民車」の設計をレーシングカーのデザイナーとして有名だった

フェルディナント・ポルシェ博士に依頼。


フォルクスワーゲンにビートルの作成を指示。デザインはヒトラー。

そして実際に自動車を普及させました。

アメリカのピュリッツァー賞作家であるジョン・トーランドの言葉で

 「もしもヒトラーが政権獲得4周年の1937年に死んでいたとしたら。疑いもなくドイツ史上の最も偉大な人物として後世に名を残しただろう」

第一次大戦に敗戦したドイツに対して欧米諸国が

ドイツ経済を叩きのめすような天文学的賠償金。

切羽詰まった

キリスト教徒の多いドイツ

当時の貧しいドイツ






異教徒のユダヤ人から

財産を搾取するシステム

ユダヤ人密告を奨励し,密告者に報酬を与え,
貨車に過密なほどユダヤ人を押し込み,
列車移送を軍需輸送の一環に組み込む。
そして,移送者の不動産から所持品まで全財産を収奪。
囚人は,奴隷労働として死ぬまで利用するか,
ガス殺し,死体を焼却して,証拠隠滅を図る。




今回列車でヨーロッパ巡ってて

もう

あきちゃうくらいたくさんの

大なり小なりの教会を見ましたが、

キリスト教徒の国なのだなと

肌でというか目で体で実感しました。


また

「パレスティナ問題」



ユダヤ人が2千年前、ローマ帝国に滅ぼされた祖国を再建する、と言い出したのが、

紛争の原因。

むかし差別され虐殺されたユダヤ人が現在、圧倒的武力を持って隣り合ったパレスティナ人(アラブ系)を殺している 

それがパレスティナ側のテロがあったからといって、

その殺戮の事実は消えない

 自分たちがされたことを他の民族しています。




アンネのお父さんは

後に判明したと言われる

国外逃亡した密告者を

追いかけようとはしませんでした。

それは

第二のアンネを作り出してしまうからで

そんな悲しみ悲劇はもう繰り返したくないからだと。







最後に


オランダ出身の

フィンセント・ファン・ゴッホ

の壮絶な

人生に重なるように皮肉めいた運命だと

考えさせられるのは、




もし、アンネが密告されず人生を全うしていたら、

「アンネの日記」はもしかしたら出版されず、

あるいは出版されていたとしても人類の歴史に残る古典として


読み継がれてはいなかったのではと


私達はアンネの美しい心に触れて、

人生って何だろうとか、

人間てなんだろうということを考える機会が与えられているのかなと、

人間界の幾重にも裏の裏の裏のある複雑さを、

複雑な気持ちで噛み締めています。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3837099.html








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