2015年7月1日水曜日

ヨーロッパ一ヶ月バックパッカ57 ベルリンの壁≒アルベルト・ハインリヒ

昨晩食べたカップヌードルがこの旅行始まってからの

久しぶりの日本食(?)でおいしかったです。

冷蔵庫があったので

ビールも冷えたのが飲めたし

日本ではあまり見かけない

しゅわしゅわレモンティーも好きになりました。

独特なセンスのお部屋で

大変過ごしやすかったです。



一回の受付にいたフントにきゃんきゃん吠えられました。

まずは

ベルリン大聖堂を見に行くことにしました。



昨日とは打って変わっての良いお天気です。








ラジオで卓球さんに教わった

ベルリンのシンボルの熊がいました。



ドイツの首都ベルリンの中心部、博物館島(ムゼウムスインゼル)



左がベルリン大聖堂で右奥に見えるはベルリンテレビ塔

旧博物館(Altes museum)

アルテス・ムゼウム



でも

時間が早すぎて開いてなかったので

別の場所に行くことにしました。

トイレです。

 旧国立美術館(Alte Nationalgalerie)



ルストガルテン(Lustgarten)

庭園


ベルリンといえば、

ベルリンの壁だろうと

見に行くことにしました。



S-Bahn Nordbahnhof 駅で降りました。

ベルリンの壁記念碑 

Memorial of the Berlin Wall

ベルリンウォールメモリアル

ベルリンの壁メモリアル

ベルリンの壁記念館

着きました。



野外博物館だそうで、

20 世紀の歴史上最も悪名高い建造物の歴史が展示されています。

ベルリンの壁は、

西ベルリンを囲む高さ3メートル、長さ155キロメートルほどあった壁で

現在残っているのはほんの数キロだそうです。


現在壁が見られるところは

三か所だそうで、

町中心のポツダム広場近くと

東駅(Ostbahnhof)近くにあるイーストサイドギャラリー、

そして


町の北側のベルナウワー通り(Bernauer Strasse) のここの

三か所みたいです。

野外展示場が設置され当時の様子を詳しく学べたりと

3箇所の壁スポットの中では、ここが一番壁の保存、

後世に伝えることに対して力をいれているそうです。



ベルリンが東西に引き裂かれていた 30 年間の資料館として、建設されたそうです。


私が訪れた2014年は

1989年11月9日のベルリンの壁(Berlin Wall)崩壊から25周年を迎える年でした。

壁の断面。

 たったコレだけの薄さの壁が、同じ民族を2つに分断していたのですね。


唐突ですが、

ベルリンの壁が崩壊した昭和63年は私中学三年生の時で


サンデーコミックスのサイボーグ009(未完」) にはまっていた時期でした。




「ヨミ編」では人間の根源は悪であると結論づけて
一応の完結をみています。









「ジョー、きみはどこにおちたい?」



力尽き、大気圏突入で燃え尽きるジョーとジェット。そしてその光を流れ星として偶然見つめていた名も無き姉弟。レイ・ブラッドベリへのオマージュ






なのでベルリンの壁崩壊のニュースで当時真っ先に頭に浮かんだのは

無論004でした。

004は本名アルベルト・ハインリヒ。ドイツ人。 「東側」のドイツ人だった彼は恋人とベルリンの壁を越えようとして撃たれました。

彼女のヒルダは即死で

彼も重傷を負ったところをブラック・ゴースト団にさらわれてサイボーグに改造されました。 

全身が武器でできている彼の別名は「死神」

自らの計画の失敗により恋人を死なせてしまったことと、生身の肉体を無くした過去のせいか、
シニカルなものの見方をして、飄々と振舞うことが多い。




俺は、この要塞がえらく気に入っちまってな、死に場所はここにすることに決めたよ。」 

映画「サイボーグ009 超銀河伝説」では

自らが犠牲になって

009達を救うために、カデッツ要塞星で敵の攻撃を受けて、

体内に仕掛けられた広島原爆で自爆しました。



すみません

私にとってベルリンの壁で

真っ先に連想するのはハインリッヒなので

けして脱線したわけではなく

我が自分のブログなので

好きにさせてもらいますよ。


突然の中二発言展開でしたが



一番夢中でコンセントレーションしていたのは中三の時です。













ドキュメンテーションセンター(資料館)

Kapelle der Versöhnung(和解の礼拝堂)

旧立ち入り禁止地域にたつ贖罪礼拝堂1999年再建。



元あった教会は東西分裂中の1985年に破壊されたそうです。

和解の礼拝堂は2000年にオープンしたそうです。




1961 年、ベルナウアー通り沿いにベルリンの壁が建設されたことにより、
何千もの家族と友人たちが東西に分断されてしまいました。

ベルリンの壁がここに建設されたことにより、元々ここにあったネオ・ゴシック建築の教会も無人地帯に取り残されることになり、

そのまま、分断された東西ベルリンの象徴となりました。しかし、この教会は 1989 年にベルリンの壁が崩壊するほんの 4 年前に、東ドイツによって破壊されました。



壁の崩壊後は、元の土台の上に、

板の外壁で覆われた版築によるだ円形の和解の礼拝堂(贖罪礼拝堂)が建てられました。

ミサでは、壁の犠牲者の追悼が定期的に行われているそうです。













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