5月の19、20、21日の二泊三日で、
広島を旅してきました。
それで、旅行前に仕事で
ちょっとした青天の霹靂おこりまして
積み込みのモータ壊れたので新しいのに交換したら、少し漏電してるとかで
突然、東京電力がやってくるヤァ!ヤァ!ヤァ!ハプニングありまして、
それで夜勤あけ、
家帰ってシャワーだけ浴びて新幹線駆け乗りました。
なにも広島行こうっていう前日に、
というか数時間前にそんな
あいつがトラブル(南野)起こらなくてもいいのにと、体重いわーとへこたれかけたのですが、
ナンノこれしきっ!(陽子)とビール飲みシウマイ食べて寝て少しでも体力回復をはかりました。
で、人生初の広島着いたのですが、
あいにくの雨模様でした。
今回の旅行でいたるところで、カープの赤ヘルキャラ見かけました。
私は野球にまったく興味ないのであくまでも主観ですが、
東京ではこんなに巨人のマスコットが町中にあふれてないですし、
大阪でもこれほど頻繁に阪神タイガースのキャラクター見た記憶ないので、
広島の人は郷土愛強い野球好きが多いのだなと推測しました。
まず、荷物を置こうと今晩泊まるホステルに向かいました。
それで、
新幹線口から南口に出るには一度駅北口出てから、
地下通路を通らないといけなかったのですが、
最初わからなくて、駅員さんに聞いて事なきを得ました。
これが言葉かわせない字も読めない海外だったと考えると、
私は一人で乗り越えられるのかと
今から相当不安です。
トラム走ってました。
チェコとポーランド思い出します。
それで、目に付いたのが
かなり風化して錆びた手押しポンプ。
被爆ポンプでした。
なんでも他の歩道にもあと六台被爆ポンプがあって、
現在駅前が再開発されているので、いずれは撤去されてしまう運命なのを懸念して、
平和公園のガイドさんが残してほしいという願いのプレートをかけていました。
事前にGoogle マップでホステルの場所は
ここら辺だろうと
あたりをつけていた甲斐もあり
けっこう迷わずにちゃんと
無事に
バックパッカーズ ホステルケイズハウス広島発見しました。
それで、
Hostels.comでの予約だと相部屋しかなかったのですが、
日本語のサイトもあって
そっちだと個室があること知ってたので
受付のお姉さんに
「来年バックパッカーでヨーロッパ行こうと考えているので
その練習で泊まりに来たのですが、
私英語まったくできないので
やっぱり知らない外国の方々と同じ部屋というのはまだ自信ないので
すいません夜勤あけですっかりへこたれました、個室お願いします。」
急きょ五階の一人部屋に変更しちゃいました。
ええ、
どうぞ
この腰抜けヘタレブロガーと非難してください
大いにつつしんでその白い目の賛否を受けましょう。
ただ、
明日泊まる予定の尾道にあるドミトリーには個室なく
逃げ道はないので
そこで諸外国の方々と交流を深めようと
考えていた所存です。
気を取り直して
ホステル近くにあるセブンイレブンで
原爆ドームまでどうやっていくのか訪ねたら、
目の前にある的場駅(広島市電)で乗れば
すぐ着きますよと教えてくれました。
今年3月から、全国10種類の交通系ICカードの相互利用が始まりましたが、
残念ながらまだ広島電鉄ではSuicaは使えませんでした。
原爆ドーム前駅降ります。
雨は黒く無かったです。
人類の犯した罪を証明する遺産(負の世界遺産)として
平成8年(1996年)ユネスコに登録が決定されました。
登録の表決に際しアメリカは反対したそうです。
原爆ドームというのは
もともとなんの建物だったのかが
私は気になったので調べてみると
広島県物産陳列館という
広島県の物産の展示や商工業に関する調査や
相談業務などを行っていた場所だったのだそうです。
設計者はヤン・レッツェルという主に日本で活動したチェコ人の建築家でした。
どうりで、プラハで見た建物が
あ、原爆ドームに似てるかもと
思ったりした理由が判明しました。
ヤン・レッツェルさんは
1923年9月1日の関東大震災で
被災者となり全財産を失ったそうです。
そして自分の設計した多くの建物が被災したのを目のあたりにして
同年11月に失意の内にプラハへ帰国しましたが、
健康が優れず設計の仕事をすることもなく入院生活をおくり
1925年、45歳で
プラハで病死しました。
晩年には家族友人から見放され、遺体は公共墓地へ埋葬されたそうです。
自分の設計した
建築が
負の世界遺産として
未来永劫残されることになるとは
いったいどういう感情がわきあがるものなのか
私には想像もつきません。