アウシュヴィッツ収容所では収容しきれなくなったため、第二収容所として大規模に増設された
ビルケナウ強制収容所に向かうため駐車場から、いつものバスに乗りました。
「死への鉄路」がアウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウへと続いています。
ビルケナウ強制収容所は、アウシュビッツ強制収容所の西約3kmのところ、
ブジェジンカ村(Brzezinka)にあります。
いきなりですが死の門に上ってます。
さすがに私も精神的に来ていて、写真を撮る枚数がビルケナウでは極端に減っています。
死の門の2階、中央衛兵所の窓から線路とバラック群を見下ろします。
広いです。
300棟以上のバラックはほとんど破壊され、今残されているのは、45棟のレンガ造りと22棟の木造だけです。
鉄道引き込み線・降車場(ランペ)
上はGoogle マップで見たビルケナウ収容所です。
総面積は1.75平方キロメートル 東京ドーム約37個分だそうです。
ピーク時の1944年には90,000人が収容され、そのほとんどはユダヤ人です。
収容所の内部から見た死の門です。
そしてここが貨物列車の終着駅、死へのターミナルだった場所です。
監視塔
アウシュヴィッツより少ないですが、ここにもパネルが展示されています。
軍医の「選別」を受けている所です。
分け方は
労働用、検体(人体実験用)、価値なしの三つです。
ほぼ7割以上の人々が、「価値なし」と 選別され、列車から直接ガス室に送り込まれました。
建物「29号棟」にアンネ・フランクも一時期収容されていました。
子供の収容棟(16号棟)
この被収容者の中にいた画家に描かせたものだそうです。
1棟あたり700人~1000人の収容者が入り、一つのセルに5人以上が寝かされたそうです。
ナチスの報告書より、労働者は3カ月程度で
過労死させるのが最も効率が良いと考えられていました。
トイレの時間が決まっていて、朝と夕方の2回だけ、しかも集団でです。
あとで、45歳のマダムに、私が
「決められた時間にしかトイレにいけないなんて考えられない。」
と話すと
さすが年上のお姉様、
一言おっしゃいました。
「食べ物をほとんど食べてないから・・。」
ハッっと気がつかされました。
たとえとして正しいかどうかあれですが、マリーアントワネットが
「パンがなければブリオッシュを食べればいいのに。」発言も、高貴な生まれの王妃には
「食べ物がない」という状況を想像できなかったからで、
私も今の自分の満たされたお腹状況からでしか、判断できなかったということで、
相手の状態にたって物事を考え、それに気づくというのは難しく、
でもそれこそがこの悲劇を繰り返さないことで一番大事なことなんだと気づかされました。
世界中から年間100万人以上の人がアウシュヴィッツを訪問しています。
ドイツの子供たちは必ず社会化見学で訪れると中谷さんは言いました。
2009年の年間入場者は130万人と過去最高を記録したそうですが、
そのうちアジアからの年間訪問者数は日本8200人,韓国3万5000人です。
この人数の違いは何なのでしょうか、理由は直行便があるとかだけではないはずです。
現在では死の門の列車入り口は金網で閉じられているので、再び列車が入り込むことはないです。
見学を終え、死の門建物内にあるお土産屋さんで、日本語DVDやパンフレットを購入しました。
どっと疲れてしまい
頭ふらつかせながらバスに戻りました。
私が今回この場所を訪れて疑問に思った一つですが、
映画「シンドラーのリスト」で、ユダヤ人を乗せてアウシュビッツに向かう貨物列車に向かって、ざまぁーみろと中指を立てるポーランド人の少年が出てきましたが、ポーランド人庶民の多くが反ユダヤ的な思考を持っている事をあらわす描写です。そんな自分たちが迫害した、ユダヤ人が大量に亡くなった場所、そして彼らにとってのお墓、巡礼の地がポーランドにとって一番の観光収入源になっていることは皮肉であり、またポーランドの方はどのようにとらえているのでしょうか?
広島にとって一番の目玉観光スポットが原爆ドームであり、
世界中から観光客が集まることにより、広島の経済を潤わしている現実であり
ジレンマとの近しい事なのかもしれません。
世界中から観光客が集まることにより、広島の経済を潤わしている現実であり
ジレンマとの近しい事なのかもしれません。
とにかく、もうこのような不の世界遺産を人類があらたに作り出さない為にも
その傷跡を後世に残し知らし続けていかなきゃいけない為の重要な場所だと考えます。
ここまでが今の私がアウシュヴィッツから学んだ感想です。
これでホロコーストについて
いったん終わりにします。
また来週からはティンカーベル脳に戻ったブログになることをお許しください。