バベル城の入り口付近に、「カティンの森事件犠牲者の碑」がたってました。
カティンの森事件をご存知ですか?
【カチンの森事件】
ロシアのスモレンスクで、捕虜となった1万数千名のポーランド兵士が行方不明になりました。しばらくしてスモレンスク郊外のカチンの森で、
これら大勢のポーランド兵の虐殺死体がみつかりました。
そしてこの虐殺はナチス・ドイツが行ったものとして長い年月そうだと伝えられてきました。
1990年、ロシアのゴルバチョフ大統領は、ペレストロイカ(改革)の一環で
「この虐殺事件を行ったのはナチス・ドイツではなく、ソビエト軍によるもの」
と認め、謝罪しました。
1939年9月にナチス・ドイツとソ連の両方に侵攻されたポーランドは敗北し、
武装解除されたポーランド軍将校インテリ民間人層・軍幹部がソ連軍の捕虜になり、
強制収容所へ入れられそのまま全員消息不明となったのです。
当時のポーランド共和国の徴兵法で、大学卒の知識人は全員予備役将校とされ、
戦時には自動的にポーランド軍将校として招集されることになっていました。
ポーランド軍将校のほぼ全員を捕虜にすれば、
大学卒ポーランド人を全員逮捕したことに等しいことになり、
将来ポーランドを再び植民地とする際に、まっさきに邪魔となる
知識階級を根絶やしにする目的でスターリンが
ソ連赤軍に命令して実行された大量殺戮、
それが、「カティンの森事件」です。
戦後、ソ連の衛星国家となったポーランドにおいて、
「カティンの虐殺」は、一切タブー視され、
50年以上の間、慰霊塔すら建てることが出来ませんでした。
十字架に書かれている数字 1940はカチンの森事件が発生した年、
そして1990年はソ連が漸く罪を認め、ゴルバ チョフ大統領が謝罪した年を表しています。
はっきり言って私はこんな現実があったなんてここに訪れるまでまったくの知らぬどんぜんでした。
ツアーでつれて来てもらわなければこれから先の人生でカティンの森事件を知らないままに生きていたはずです。
2010年4月10日、「カチンの森事件」70年の追悼式典に出席するため
ポーランドのレフ・カチンスキ大統領(60)ら同国政府要人が
ロシア西部スモレンスクに向かうところ旅客機が墜落して
大統領や同乗のマリア夫人含め搭乗者数132人全員が死亡しました。
その一年後、
2011年4月9日にコモロフスキ現大統領のアンナ夫人が
遺族一行を連れ事故現場を訪れたさい発見したのは
いつの間にかロシア側によって交換された碑文でした。
(現在の碑文)
(旧碑文)
旧碑文には、スモレンスク郊外で第2次大戦中、ポーランド将校が旧ソ連秘密警察に大量虐殺された
「カチンの森事件」について明記されていたのに
交換後の碑文からは抹消されていたのです。
今現在でも、このような浅ましい改ざんが行われていました。
カティンの森はマンガ館を建てた日本美術ファンの
映画監督アンジェイ ワイダ氏によって映像化されています。
カティンの森 KATYŃ
制作2007年
監督アンジェイ・ワイダの父親も虐殺されたポーランド将校の一人でした。
監督デビューして間もない1950年代半ばに
この事件の真相を知ったそうです。
当時、カティンの森事件はドイツの仕業とするソ連のプロパンガンダ映画が作られていました。
監督は真実の「カティンの森」事件を映画化したいと切望しましたが
ポーランドはソ連の傘下に落ちていたため
この事件について語ることすら許されませんでした。
長い々い冷戦下の時代を経て
構想から映画化まで50年以上の歳月を掛けて
2007年、81歳にしてついに映像化しました。
監督のお言葉です。
ポーランドはなんて悲しみ
苦痛にみまわれた大地なのかと
後日訪れた
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所
でさらに考えさせられました。
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では、また
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時を
旅の時系列にあわせます。
そしてここバベル城前で現地ガイドのモニカさんと別れました。
とても流暢な日本語を話す、大変な親日家でした。
Karczma Halit
それからバスにゆられること約45分ほどしてヴィエリチカ岩塩坑近くのレストランでお昼ご飯です。
オコチム(Okocim)
ここは今までのティスキエ(Tyskie)ではなく
Okocim Breweryというポーランドのビールでした。
パンの器のきのこスープです。
優しいお味です。
ポーランド風餃子のピエロギ(Pierogi)です。
確かに餃子と言われれば似ている感じでした。
チーズ入ってました。
あれが醤油とお酢ならもっと美味しく頂けました。
三連休、最後レンタルDVDを見まくっています。戦争ものもひとつくらい、見ようということで、見ました。ナチスの残虐さなのか?、それとも収容所の残虐さなのか?、ストーリーがなかなか最後まで、わからず、途中で、ネットで『カチンの森事件』を検索して、なんとか理解しました。
返信削除戦争、勝者が歴史を書きかえることはあってはならないし、ポーランドの人々の長年にわたる、葛藤、真実を貫く闘いを知りました。
コメントありがとうございます。
返信削除まことにお恥ずかしいのですが、正直に明かします。
現地ガイドのモニカさんが、バベル城出た後、
てくてく歩いてカティンの森慰霊塔の前までくると、重々しくそしてさもみなさん当然ご承知である、
「これがあの事件の慰霊碑ですよ。」と説明されたのですが、
しかし私はまったく存じ上げてなくて、
なんかわかんないけど取り合えず写真撮っとこうかなとシャッター押してました。
ああ・・ほんとうに今から思うとなんて私は不謹慎きまわりない痴れ者与太郎なんでしょう。
日本帰ってブログに旅行記書くときに「カティンの森」で検索して
その真相を知り驚きました。
この旅行は好きだった人に見切られちゃってもう感情が居ても立っても居られなくて、
突発的にツアー申し込んだものだったので、ほとんどポーランドの知識皆無な状態で
参加してしまいました。
そんな動機で訪れたポーランドでしたので、実際行って受けた衝撃経験は私の中で相当デカくて、親日家が多くてとてもあたたかい国でした。
来年なんとしてもランタン祭り見に行きます。