ポーランドに実際にいくまでは、アウシュビッツについて、
このブログでは詳しいことは書かないでおこうと思っていました。
このブログでは詳しいことは書かないでおこうと思っていました。
、
理由はこの脳内満開お花畑ブログにホロコーストはまったくの真逆で遊離している世界のことで
また、知識もない私が浅く取り上げてはいけない事だと考えていたからです。
なのにこうして三回にわたってアウシュヴィッツをポストしたのには理由がありまして、
恥ずかしながら明かします・・・。
旅行に行く直前に、検索でアウシュヴィッツと入力したら、予測変換で真っ先に
「アウシュヴィッツ 嘘 」
と出てくるのです。
ユダヤ人を収容所に集めたのは、ドイツがソ連に勝利したさい植民地として広く開拓するために
ガス室は構造的におかしいとか、
人が大量に亡くなったのは収容所内にでの伝染病がおもな原因であって
殺人ガスだと言われてたチクロンbは、実は チフスを伝染させるシラミの雑菌消毒剤で
戦時中でドイツお金なかったのに高価な毒ガスを大量に使用したり 燃料不足なのに大量の燃料を使って遺体を処理したりなどの矛盾点を指摘していて、その時の私はもっともらしいと思ってしまいました。
確かに生き延びた人の証言により事実を元に作られた「シンドラーのリスト」でも
ガス室だと思って入った部屋の天井から降り注いで来たのは水だったりしたので、
ドイツ人が同じ人間をそんな無情に殺害していたと認めたくなくて、
自分の心の保身のためにちょっとそっちを信じたくなりました。
なのでとんでもない事に私はアウシュヴィッツという場所で
言うに事欠いて信じられない事ですが、
あの中谷剛さんに向かって
「ガス室って本当だったんですか?」
ああもうほんとに・・
今ならどれだけ浅はかはなはだしい質問だったと
「広島長崎に原爆を落とされたのは嘘で、アメリカ人がそんなことするわけないでしょう」
ぐらいのとんでもない間違いだったと分かるのですが、
日本に帰ってから自責の念にさいなまれる日々でした。
なので実は自分への戒めの意味を含め
出来るだけ自分なりにですが、
ここで起こった出来事を自分がとにかく理解するために
ブログにしてみようと考えての行為です。
強制収容された人々の写真ですが、ほとんどポーランド人でユダヤ人は少ないそうです。
最初の頃はこうして連行されてきた日と死亡した日が記載されています。
この行為はゆえに、
収容所の存在を国際社会に証明するためで、報告書も、収容名簿も作られていましたが、
どんどん収容者が増えていき、
仕切れなくなるにつれ無尽蔵にガス室で殺された人たちにはないものです。
これが1日分の食事だそうです。
朝:コーヒーと呼ばれる黒い液体(コーヒー豆から抽出されたものではない)
昼:具も味もほとんどない スープ
夜:パンと 少々のバター
Starvation(餓死)
10号棟と11号棟の間には鉄柵をつけたレンガ塀が。
この奥にある壁が≪死の壁≫と呼ばれる場所です。
1万1千人、主にポーランド将校が銃殺されました。
死の壁右が11号棟
左の10号棟は人体実験病院で、モルモットと呼ばれたおもに双子の子供など被験者に銃殺光景を見せないように窓には板が打ち付けられ目隠しがしてありました。
「死の天使」と恐れられたヨーゼフ・メンゲレが人体実験を繰り返し行った所です。
ごめんなさい、人工の「シャム双生児」とか、流石にこの人がおこなった行為はこのブログには書けないです。
壁の隙間には、ユダヤ人がお墓においておく、「安らかにお眠りください」の意味をもつ小石がありました。ここでは自分たちをかくまって処刑された人たちがいるからです。感謝の気持ちを込めてユダヤ人が置いていったものです。
アンネフランクを助けたオランダ人もいましたが、密告した人もいて、ドイツに占領された国々も、ユダヤ人を助けた人もいれば突き出した人もいて、でも一番多かったのはやはりかかわりたくないと考える傍観者だったそうです。
ここで中谷さんが日本のシンドラーと呼ばれている杉原千畝領事のお話をされました。
当時は日本とドイツが同盟していたので、外務省がユダヤ人にビザを出すことを反対していました。なのでどうして杉原さんが個人的に助けることができたのかいまでもなぞが多いのですが、戦争が終わったあとの杉原さんの評価は素晴らしいという声よりも、ユダヤ人からまとまったお金をもらっていたからだという悪い噂の方が多かったそうです。
正しい事、善意でしたことを悪い要に解釈されてしまうのは
助けたのがユダヤ人だったからと・・・
ゆえにいかにユダヤ人を助けるのにどれだけ勇気がいたかという事です。
11ブロックは「死のブロック」と呼ばれました。
囚人はマットが敷かれた場所に寝かされたり、
その次にはこういった三段ベットに一段に二人ずつ寝かされました。
脱走者がでた場所では、連帯責任を取らされランダムで10人が選ばれて殺されるのです。
そして脱走計画者を密告すれば、自分は生き残れるルールがあったり、
同じ囚人でもブロック長には広く大きい部屋を与え、扱いを変え自分だけは生き残れるという希望を持たせ、囚人に囚人を監視させました。
こういったシステムを作ることで、もともと人間の内のなかにある心理をうまく利用し反乱や脱走が起こるのを防ぎました。
餓死室
ヨハネ・パウロ2世から贈られた大きなろうそくが部屋の真ん中に置かれています。
コルベ神父が身代わりとなって入った場所ですね。
中谷さんが遠藤周作 『女の一生〈2部〉サチ子の場合』を読んで長崎に行くと、コルベ神父の作品に巡りあえ、またよく分かると語りました。
窒息室
餓死室の右隣の部屋では、窒息刑と呼ばれる30人から40人を部屋につめ空気が入らないようにした部屋です。
そしてこの第11ブロック地下牢が1941年9月3日、アウシュヴィッツでガス殺が初めて行われた場所で、
チクロンBの人体に与える殺傷能力がどの程度なのかを試験するため、
実験対象として約600人のソ連軍捕虜と収容所内の病院に入院していた約250人の患者を実験対象にしました。
「満員の密室の中で、即死の効果を得ることができた」という結果から
アウシュヴィッツではチクロンBを用いたガス殺が行われることになりました。
立ち牢
四人ぐらいの人がここで3、4日も立たされるという刑
奥の高いポプラは67年経ったもので 、左の小さいのは木が弱ってきて危ないということで、最近新しいポプラに植え替えられました。
当初はこの高さのポプラが並んでいました。
集団絞首刑台
ここは収容者たちの点呼広場で、その前には絞首台が置かれています。
絞首刑の様子を拘留者の目に焼きつけ恐怖心を煽るためです。
そしてここが現存しているガス室です。
ガス室のすぐ横にあるこの絞首台で収容所の初代所長だったルドルフ・フェルディナント・ヘスが1947年4月処刑されました。通常はルドルフ・ヘスと表記されるので、93歳まで生きたナチ副総統(総統代理)のルドルフ・ヘスと混合してしまいます。
あの木立の向こうにちらりと見える屋敷に所長ルドルフ・ヘス所長は家族と共に住んでいました。
そして右のレンガは収容所なのです。
こんな近い距離だということに驚きです。
そしてこの家のすぐ向かいの絞首台でルドルフ・ヘスは死にました。
これで一先ずこのブログではアウシュヴィッツについてお休みさせてください。
そして、
次はここでは収容しきれなくなった為に作られた、
ビルケナウ収容所に続きます。
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