ワルシャワ市内観光の続きです。
今回の旅行記のタイトルですが、
鉄仮面被ってる2代目麻宮サキとは無論関係なくて、
次に向かった場所が、
クラシンスキ公園の東側にある
ワルシャワ蜂起記念碑(Pomnik Powstania Warszawskiego)だからです。
ベルリンの壁崩壊後の1989年
市民蜂起45周年を記念して蜂起軍が武器を捨てた所に建てられた記念碑、
慰霊のモニュメントです。
ちなみに後ろの青い柱とガラス張りの建物は、ワルシャワ最高裁判所です。
ワルシャワ蜂起の最初のきかけはなんと、旧ソ連が、
ラジオでワルシャワ市民やポーランド国内軍に蜂起を呼び掛けたからだそうです。
当時ワルシャワを占領していたナチス・ドイツ軍は、
ソ連軍のバグラチオン作戦に敗れて多くの兵士を失っていました。
このナチの力が弱まっている今なら勝てると5万人のポーランド軍と市民が
ワルシャワ奪回のために蜂起しました。
数ならワルシャワ側の方が多かったのですが、ドイツ側の最新の兵器におされました。
そこでソ連軍が加勢すれば勝てていただろうのに、
イギリスからポーランドを助けるように要請があったのにもかかわらずソ連は見捨てたのです。
スターリンは、ポーランド主導の解放ではなく、ソ連軍による解放をもくろんでいたので、
ソ連軍は18マイル(約30km)ヴィスワ川の対岸で進軍を止めるのです。
これをみて、ヒトラーはソ連軍がワルシャワを救出する気がないと悟り、
レジスタンスの弾圧にかかりました。
ワルシャワ蜂起軍は63日間も不利な状況の中で戦い抜きましたが、
とうとう10月2日に鎮圧されてしまいます。
そしてドイツ軍はここぞとばかりにワルシャワを無差別爆撃。
町は徹底的に壊滅されました。
旧市街の90%が灰燼に帰したのはこのときでした。
戦後ポーランドでは、カティンの森事件同様にワルシャワ蜂起の事実を学校で教えることが禁止されていました。
ベルリンの壁崩壊したのちの1989年8月、
45年の時をへてようやく建てられた
鎮魂のモニュメントです。
ワルシャワ蜂起記念碑の前には聖マリア教会がありました。
クラクフと同じ二つの塔ですが、あんなに高くはなかったです。
そして次はショパンの生家の見学のため
バスにのりワルシャワの西方約50キロメートル、
ポーランド中部にあるŻelazowa Wola(ジェラゾヴァヴォラ)に向かいました。
画像真ん中奥に見えるのは『カティンの森事件』慰霊碑
移動するバスの
中からでの撮影なので
ちゃんと撮れている画像がありませんでした。
PINKO(ピンコ)なるブランドの広告、
これを見て私はウィークエンダーしか頭に浮かびません。
ここでもまた、変わり行く東欧の町並みを記念に撮ります。
同じ色の
似たような建物が多いです。
これも長いことソ連の衛星国だった事と関係あるのでしょうか?
雲の隙間から晴れ間が見れます。
季節が一緒だからですね、
チェコで桐渕さんの車に乗ってチェスキークロムロフに行ったとき見た空と同じだと思いました。
ジェラゾバ‐ボラ村のショパンの生家前に着きました。
現在は博物館として公開されています。
その前に
ショパンの生家のすぐ近くにあるレストラン「ポルカ」で昼食でした。
zupa pomidorowa(ズッパ・ポミドロヴァ)
トマトスープの中に細切れの麺が入ってる感じでしょうか、
美味しかったです。
BIGOS(ビゴス)とそなえつけのポテトです。
ビゴスはキャベツ、ザウアークラウト、ひき肉を煮込んだもので
ポーランドではまた代表的な家庭料理だそうです。
ポーランドの家庭によって材料も作り方も微妙に異なる、「ポーランドのおふくろの味」なのだそうです。
2004年5月1日にポーランドがEUに加盟するとき、
このビゴスをお店で提供してはいけないとEUから通達があったそうです。
その理由は調理方法がEUの食品衛生基準に満たないからだそうで、
このビゴスという料理は何回も煮込むのが美味しさの秘訣とのことで、
それを何回も暖めなおすとEUは解釈したからで、
飲食業者はこれに反発したことで、
結局今レストランでビゴスを出せるのだそうです。
レストラン向かいにショパンホテルありました。
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