2011年11月1日火曜日

船の科学館

今現在、私の頭の中は

今月のポーランド旅行の事で完全に支配されています。


なのでそっち方面でとトピックス思弁くわだてようと心みたのですが、


どうしてもホロコースト浮かび上がり


いつもとは違った意味での


寂しくて悲しい内容のブログになってしまいます。


アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所に行こうという限りは



行われた悲哀の現実、


ここでも少しは書くのとは思うのですが


あまり深く掘り下げる内容は控えておくことにします。




なので今回は船の科学館、記載します。


私、船は電車なみに知識も興味ないのですが


九月末で休館してしまうという事なので行っておきました。













日本船舶振興会お金もってますよね。


ギリシャのトライリーム 紀元前5世紀

船首に長く突き出たとんがりは、敵船に体当たりをして破壊する役割をもち、戦いの勝敗はスピードと機動力がきめてでした。サラミスの海戦(紀元前480年)において、ペルシャ軍を敗ったギリシャ軍は船を接触して甲板上で戦うのではなく、船首のとんがりを突入させ敵船を破壊する作戦をとったのでした。



北欧の船 13世紀

一本のマストに一枚の横帆をもつヴァイキング型をした北欧の船は、13世紀に入ると船体も大型になり、船を操ったり、敵船へ有利な高い位置から攻撃できるよう船首と船尾に城のような構造物をもつようになります。船の方向を変える舵は、オール状のものを備えていたものが、13世紀の末頃になると舵を船体中心線の船尾に位置させたことにより、操舵性能が向上するなど帆船として大きな発展がみられました。

ブリガンチン型帆船 18世紀~19世紀

世界各地で、その海の状態と入手できる材料を考えながら操作性と経済性を追求し、さまざまな工夫が加えられ、いろいろな型の帆船が生まれました。18世紀末から19世紀にかけて活躍した代表的な帆船がブリガンチン型帆船です。2本のマストを持ち、前マストには追い風に強い横帆を、後マストには操作しやすい縦帆を装備しています。





カラック サンタ・マリア 1492年

15世紀頃になって、北欧の横帆船と地中海の三角帆船とが融合して、カラックという新しい帆船が生まれたことにより大洋の航海がより容易になりました。1492年コロンブス(イタリア人)は“サンタ・マリア”に乗船し、2隻の帆船を率いてスペインを出向、太平洋を西に向かいました。その船隊は69日後には大西洋を横断し、北アメリカの西インド諸島に達しました。コロンブスの一行が西欧人として最初に到着したと考えられていましたが、それから約500年前の1000年頃に、ヴァイキングがアイスランド、グリーンランドを経てヴィンランド(現在のラブラドル半島付近)に上陸していたことがほぼ確実となっています。

“サンタ・マリア”の要目は不明な点が多く、唯一明らかなのは帆装だけで、その他のものはその時代の船からの推定となっています。


クリッパー シー・ウィッチ 1846年


船首像〔実物〕

船首像は、船を水の魔神から守り、安全な航海をするための守り神として、主に帆船のへさきに取り付けられたものです。

船を人や動物にみたて、船首を頭部になぞらえて飾る習慣は古代エジプトの頃からありました。帆船時代にはいると、軍船は敵をおどすために猛獣や戦士の像を取り付け、商船は女神や船主の妻・娘などの像を守り神として付けました。

この像は、1925年(大正14)に解体されたロシアの船についていた像です。

原子力船むつ

1963年(昭和38年)に計画が始まり、日本で唯一建設された原子力船むつ

1974年に(船の科学館開館と同じ年ですね)むつの原子炉から放射線漏れるという、

当時日本中が震撼することがおきました

どうその自体を解決したかというと


中性子を吸収するホウ酸を混ぜた炊き込みご飯をつくり、

それをおにぎりにして漏れてる部分に向かって投げつけて塞いだのだそうです。



日本で最初のテレビアニメーション「鉄腕アトム」が放送されたのも

むつの計画が始まった同じ昭和38年です。

体内の超小型原発を

真空管で制御する

10万馬力(のちに100万馬力)の科学の子

「アトム」は原子、原子力の意味、

妹は「ウラン」、

弟は「コバルト」と放射性元素が名前につくなど


この時代、純粋で安心の

夢のエネルギーだったのですね。


















昭和の子供達が胸躍らせた未来世界です。



卓球さんのMix-Up シリーズのジャケット絵を描いた小松崎茂
を彷彿させます。









先々週のタモリ倶楽部が「 船の科学館 」でした。

その中で番組内でのワンセンテンス

学芸員・齋藤さんが選ぶ、タモリに見せたい展示品BEST3

の第三位にあげられたのが

この画像ヤマトの右、人で船首見切れてしまっている

戦艦「敷島」模型です。

日露戦争において、日本海軍の主力艦として活躍
明治33年(1900)イギリスのテムズ鉄工造船所で建造されました。

三笠と同型艦です。


造船所が発注主にこういう船が出来ますよと見せるために1/48スケールで作られたもので

一世紀たっている船の模型はそれだけで文化財価値があり

タモリさん曰くこれ一つで高級車買えるそうです。


なのにお客さんのほとんどが大和の方に食いついてあまり見てもらえないとの学芸員、齋藤さんのお話、私もそうなので敷島見切れてる写真しかありませんでした。






19歳の頃に、広島の江田島で特攻訓練を受けたという85歳の方からの

戦艦大和と太平洋戦争の歴史についての説明がありました。



資源のまったくない国が勝てるわけないでしょうと

以下にミリタリーバランスが違ったのか、あの時降伏していれば、東京大空襲、

長崎広島に原爆落とされることはなかったと

戦争ほど愚かなことはないと

必死に訴えていました。


大東亜戦争で実際に徴兵された方の原体験を聞ける機会など

大変貴重です。


徴兵制度は最初20歳からでしたが、昭和18年に19歳に引き下げられたそうで

志願兵として15歳から入隊した人もいますが

もう体験された最年少の人でも、80歳以上になるのですね。





























エレベーターで展望台昇ってみました。



この展望台2階層に分かれているのですが、上もまったく同じフロアー構成で、



一階層あがったぐらいでそんな景色変わるわけでもないので

ボラれた感が否めません。

デジャヴの空間です。












今回、船の科学館散策して、建造物として私は面白くて楽しめました。

なんて探求心くすぐられる夢の詰まった構造設計なのだろうと関心しました。


70年代当時ならですが・・


やはりバリアフリーとかの観点いっさい無い基本設計


はとバスコースからも外されてしまいましたし、

お客さん集客するためには

新しく作り直すしか道はないのでしょね。




この地に再び最新の科学館できるのを期待しています。




・・・でもこれで、





お台場に残る“最後の昭和”が無くなりました。






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